先週の説教要約 「キリストによる救い」

○先週の説教要約
『キリストによる救い』                   上中栄牧師
《それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです》。(ローマ5:1−11)
今年は宗教改革500年の年です。改革者ルターは、福音を再発見した人です。
ルターは、神の義によって救われる意味について、悩みました。例えば、エデンの園で、食べることを禁じられた木の実を食べたアダムとエバを、神は《どこにいるのか》とお探しになります。人を探される神の姿は、ザアカイの物語や「失われた羊」の譬えにも描かれています。それで私たちは、メェメェ泣いていれば見つけてもらえるような気がしていますが、アダムとエバは楽園を追放されました。これが神の義です。ですから、義によって救われるとは、本来あり得ないことであり、神の救いは私たちの願望をはるかに超えるものです。
それを実現したのが、キリストの十字架です。神は、滅ぶべき《わたしたちに対する愛を示さ》れ、み子をお遣わしくださいました。このキリストが私たちの罪を負って死んでくださったことにより、罪が滅ぼされ神の義が全うされると共に、キリストを信じる者は《キリストの血によって義とされ》るのです。
これは、聖なる神の義と愛が成就するという、複雑な手続きにも見えます。実際、《義》やこの後に出て来る《和解》などは、法廷などでの手続きを表す言葉です。ですから信仰というのは、ある意味でとても冷静です。《義とされ》るとは、信じる者への無罪の宣言です。しかし、あの姦淫の現場で捕らえられた女性に主イエスが言われた、《わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない》という言葉を思い出せば分かるように、神の救いの手続きは生き方を変えるよう促します。私たちはそれぞれの生活の中で、落ち着いて神に心を向ける時、道が備えられていることを知ります。
神の救いは人の思いを超えて高価なものです。ルターが福音を再発見したように、私たちも義とされている恵みに驚きつつ、心を神に向けて歩みましょう。