2018年9月16日の説教要約 「ヤベツの祈り」

2018年9月16日の説教要約
         歴代志上 4章10節 「ヤベツの祈り」  中道善次牧師


歴代志上は1章から9章まで、カタカナ名の系図ばかり続く箇所ですが、その中できらりと輝くのが4章10節のヤベツの祈りであります。

① ヤベツの祈りとの出会いから17年
「ヤベツの祈り」という小さな本は、120ページほどの本です。著者はブルース・ウイルキンソンです。「いのちのことば社」から2001年11月に出されました。英語の出版は2000年です。
2002年にヤベツの祈りを紹介して、それを実践することを勧めました。
ヤベツの祈りを勧めたのは三つの理由からでした。
第一は、「祝福して下さい」「国境を広げて」という祈りは、第三者が、それらが達成されたかどうかを判断することがらではないから、気持ちが楽なのです。
ヤコブが子どもたちの祝福を祈りました。創世記49章です。締めくくりの箇所で、神様は、それぞれにふさわしい形の祝福を与えたとあります。祝福は、他者と比較する必要のないものです。
第二は、ヤベツの祈りは、実行可能だからです。ヤベツの祈りを祈ることは、無理な要求をしているのではないのです。たった15秒ほどで出来る祈りです。
著者ブルース・ウイルキンソンは次のように記します。私はヤベツの祈りに出会ってから、毎日一字一句祈っています。そして30年がたちました。未だにその祈りを止めていません。
そして次のように勧めています。毎朝ヤベツの祈りを祈ってください。家族や友人、教会のためにもヤベツの祈りを祈り始めてくださいと。
私は、ヤベツの祈りに出会ってから、これなら実践できると思い、17年間実践してきました。
第三は、希望がわいてくるからです。私たちのキリスト教信仰は、真面目で、足りないところを指摘され、改善してゆかなければならない。そのようなマイナス点を補ってゆく傾向が強いのです。
でも、私を祝福して下さい。私の領域を広げて下さい。災いを遠ざけ、苦しみに遭わないようにして下さい。前向きです。自己中心と言われるかも知れませんが、この祈りを祈ると楽しいのです。気持ちが楽になるのです。だから続けられたのだと思います。

② ヤベツの祈りが与える励まし
ブルース・ウイルキンソンは、この祈りは4つのセンテンスに分けて解説しています。

a.私を大いに祝福し

私たちキリスト教信仰は、新聖歌196番にあるように、♪祈れ己のことよりむしろ、人を執り成す身となるまでは♪とあるように、祈りは自己中心ではいけない。自分のことだけ祈るのではない。むしろ他者の祝福を祈るのだと教えられてきました。しかしヤベツの祈りは、私を祝福してくださいから始まるのです。私たちの中にある低い自己イメージ、自分は何をやってもうまく行かない、という方がいます。自分はかわいそうだという自己憐憫、消極的で引っ込み思案な方がおられます。そのような方々にチャレンジを与えるのです。自分の殻を破る祈りとなるのです。
ヤベツの名前は、「痛み」です。このような名前を子どもに付けるでしょうか。
代上 4:9 ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。
原因が何であれ、いやがる名前をつけられて、育ったのです。名前だけでいじめに遭ったのです。親から望まれないで生まれてきたと「痛み」という名前が思い出させたでしょう。
聖書では名前がその人の将来を決定すると言われます。「痛み」という名前は、彼の人生そのもののようになっていたのです。しかしそこを打ち破る、そこから解放される祈り、それが「私を祝福してください」だったのです。

b.私の地境を広げてくださいますように

この地境とは、働きの領域であると本にも書かれており、私もそうだと思っていました。
しかし働きの領域だけでなく、神様は文字通り、領域を広げてくださいました。地境は、国境とも訳せます。旧約聖書の時代には、自分たちの所有する地所が、土地が広がるということを意味していたのです。ヤベツの祈りに出会った頃は、土地が広がるというような理解も認識もありませんでした。
それは兼牧をしている茅ヶ崎教会のことです。かつての茅ヶ崎教会は、路地の突き当たりで、わかりにくい。駐車場もありませんでした。
勿論ヤベツの祈りだけでなく、プレイヤーウオーク(祈りの歩行)がありました。OMSの祈りのチームが来てくれました。人々の協力がありました。そして、教会の地所が広げられたのです。

c.御手が私とともにあり

この祈りは、後半につながると理解していました。それは神さまの守りの御手です。守りの御手があり、災いを遠ざけ、苦しみに遭わないようにしてくださる。
ところがもう一度、本を読み直してみると、次のように書かれていました。
ここで、神の御手がともにありますようにと言うのは、ヤベツの最初の祈りでなかったことに注目してください。祈り始める時点では、ヤベツはその必要を感じていなかったのです。物事はまだ自分の手で出来る範囲にありました。彼が負うリスク、そしてそれに伴う恐れは最小限でした。しかし、地境が広げられ、神のご計画による御国サイズの仕事が与えられるようになり、ヤベツは自分の上に神の御手が臨むことが必要であると分かったのです。
神の御手があなたの上に置かれることは「偉大さに触れる」事です。

d.わざわいから遠ざけてくださいますように。

ヤベツは、人生で苦しんできた。痛んできた。だから、もう痛みを受けることがないように。
災いを遠ざけてください。これは主の祈りの「われらを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と同じだというのです。誘惑に遭わないようにしてください。悪とは、人格をもった悪、つまり、悪魔、のことです。悪魔が私たちを攻撃してくることがないように。誘惑してくることがないように、守ってください。
そう言っても、苦しいことがあります。痛みがあります。どうしてこんな目に遭い、こんな思いをしなければ、ならないのかと思うことが、ヤベツの祈りをしていても、あります。しかし、神の御手がともにあるのです。試練の中での守りの御手が、痛みの中で支えてくださる神の御手があるのです。


最後に注目したい言葉は、歴代上4:9〜10です。
代上 4:9 ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。
代上 4:10 またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災からわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。
新改訳では「尊敬された」を「重んじられた」と表現しています。これは、神様がヤベツを気に入られたということです。厚かましい求めをしたヤベツですが、神様はヤベツを気に入られたのです。
そして、その求めるところをゆるされた。ヤベツの願ったことがかなえられたのです。