2021年10月24日の説教要約
「ヤベツの祈り パートⅡ」 中道善次牧師
≪歴代志上 4章9~10節≫
今日はヤベツの祈りの後半であります。「御手が共にあって、災いを遠ざけ、私が苦しむことのないようにしてください」であります。ヤベツの祈りの後半の部分は、私たちが、毎日のように祈っていることだと思います。その第一は、私や家族を守ってください。第二は、嫌なことや苦しいことがないようにしてください。それは本音の祈りと言えます。
1、御手が共あるように
ブルース・ウィルキンソンの「ヤベツの祈り」の本では、「御手」は、主に全能の御手を意味しております。それは、国境を広げてくださいという祈りと深く関わっているのです。自分の働きの領域が広がる。そうなると、自分の力ではどうにもならなくなる。そのように自分の力が及ばなくなる所に、神の全能の御手が働くのです。
これから語ります個人的なことは、後になって振り返って「そうだったのか」という気づきであります。
先週語りましたように、ヤベツの祈りの中の「国境の広がり」が文字通り起こりました。茅ヶ崎教会の土地を購入する。ビルの改築が行われる。このことは、私の力が及ばないことでした。教会としても経済力という点で、とても及ばないだろうと思えることでした。現在の場所に移ってから、8年が過ぎました。何とかここまで来ることができました。そう感じております。そして、振り返ってみると、「主の御手が共にあった」ことが、わかるのです。
さらに「主の御手」について、見てまいりたいと思います。
「主の御手」とは聖書では、神の民の人生における神の力と臨在を表す言葉です。
ヨシ 4:24 それは、地のすべての民が主の手の力強さを知るためであり・・・
使徒言行録では初代教会の圧倒的な成長はただ一つのことが原因であったと言われます。
使徒 11:21 主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった。
聖書はさらに主の御手は聖霊の満たしであると伝えます
使徒 4:30 どうか御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
使徒 4:31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語り出した。
主の御手は、守りの御手であります
ペテ1 5:6 ですから、神の力強い御手の下でへりくださりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。
主の御手は私たちを支える勝利の御手です
イザ 41:10 恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える。
主の御手は癒やしの御手
マコ 5:23 しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
必要な物を与える主の御手です
荒野でイスラエルの人々は、食べ物が十分でないと文句を言ったのです
それに対する主の言葉。民 11:23 主はモーセに言われた。「主の手は短いのだろうか。私の言葉どおりになるかならないか、今、あなたは見るであろう。」
主は、60万人のイスラエルの人々が食べ飽きるほどに肉を与えられたのです。ウズラが飛んできて、彼らのいる場所に落ちてきたのです。
そして、主の御手は救いの御手であります
イザ 59:1 見よ、主の手が短くて救いえないのではない。その耳が鈍くて聞こえないのでもない。
ここでは罪が赦されるという救いという以上に、困難から抜け出す。問題が解決することです。
2、災いや苦しみに遭わないように
ブルース・ウィルキンソンの本で、災いから遠ざけてくださいますようにという、最後の祈りの解説の中で、次のような小見出しがついています。
「君子危うきに近寄らず」
明らかにこれは、翻訳された方の意訳であります。
英語では、Playing Keep Away
そしてその次は、「自前の武器は捨てて」とあるのです。
それは自分に自信があると敵の領地に攻め込んでしまいます。それは危ないことだと言うのです。
私はこのことで思い出す聖書の人物がいるのです。
それはヨセフです。ヨセフは、主人の奥さんから誘惑を受けました。
そこで彼が取った態度は、一緒にいようとしなかった、ことです。
それでも仕事があるので、家の中に入ります。たまたま誰もいないとき、服を捕まれました。
その時、ヨセフが取った態度は、逃げたことです。
私たちクリスチャンにとって大切な教訓があります。
必要でない戦いを避けるようにすることです。そのような場所から距離を取ることです。
「主の祈り」の中でもイエス様がおっしゃっているのです。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。
試みとは、誘惑のことであります。誘惑を遠ざけてください。
そして「悪」とは、人格を持った悪、つまり、サタンのことです。
サタンの攻撃から守ってください。遠ざけてください。
私たちはどこかで、クリスチャンが苦しみに遭うように、思い込んでいる。
たしかに迫害を受けることがあるでしょう。試練に直面することがあるでしょう。でも私たちの側から、喜んでそれらを引き受ける必要はないのです。
これからも私たちは、主よ、私を守ってください。私たちの家族を守ってください。教会を守ってください。職場も学校も日本全体を守ってください。世界を守ってください。祈り続けたいと思います。