2023年1月15日の説教要約 「イエスはまことのぶどうの木」

2023年1月15日の説教要約

   「イエスはまことのぶどうの木」   中道由子牧師

 

《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。》(ヨハネによる福音書15章1~12、16節)

 

1、らせん階段を上がる 

 ヨハネの教えは、「らせん状」になっています。

一周回って、そして一段高くなってもう一度同じ教えに帰り、そこからまた1周回るという具合に教えが展開していっているというのです。

 15章を読むと、1~4節と5~8節が二重写しになっています。

特に1節「わたしはまことのぶどうの木」と5節「私はぶどうの木」の語りだしがほぼ同じです。そして4節と8節には「実を結ぶ」という言葉が出てきます。

 そこには、イエスにとどまるということが具体的に記されているからです。

 4節での「私につながっていなさい」、「イエスにつながる」という言葉が、7節では、「わたしの言葉が内にあるならば」、となる。その続きは、9節で、「わたしの愛にとどまりなさい」、さらに10節では、愛にとどまるとは、「わたしの掟を守ること」だ、さらに展開して、12節では、その「わたしの掟」とは、「互いに愛し合うこと」である、と続きます。そしてこの教えの終わり16節には、15章で繰り返し言われている「実を結ぶ」という言葉がもう一度出てきます。

 「イエスにつながる」とは、何よりも「教会につながる」ことです。

教会につながることなしに、イエス様との命の交わりもないし、実を結ぶこともないのです。しかしこういう現実もあります。私はしっかり教会にはつながっているのだが、力なく、実を結んでいないように思える。

御言葉に土台して祈ってみることです。祈りが答えられるということほど、神様とつながっているとう実感は他にはありません。それは、実を結ぶことの大きな一面です。

また御言葉にとどまる、愛にとどまる、それは神様の愛を感じるだけでなく、具体的に兄弟愛を実践すること、愛し合うことにあります。

このように私達の信仰も、らせん階段をあがるように、同じ周期を繰り返しながら、少しずつ上に上がってゆくものでありたいと思います。

 

2、実を結ぶ人生

そしてぶどうを育てていくうえで、剪定作業はとても大事と言われます。

いっぱい葉っぱがついて豊かに見える、それは実際には栄養分が行かない状態なのです。

神様も私たちが豊かに実を結ぶために枝を取り除き、手入れをなさる時があります。

それはある時は私たちにはちっとも良いことに思えなかったりします。

ヘブライ人への手紙12章11節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義と言う平和に満ちた実を結ばせるのです。」

喜ばしいどころではない、私たちに痛みを感じさせる神のお取り扱いもあります。

しかし神様には御計画があります。神様は実を豊かに結ぶであろう、あなたの姿をすでに知っておられるのです。

 もう一つは、イエス様から離れないことです。

枝が木から離れたら、枝だけで生きていくことはできません。

その永遠の命をくださる、命の源であるキリストから離れると実を結ぶことができない、祝福を受けることができません。

 ぶどうの枝は、太くもない、しかも曲がりくねっている。ぶどうの木や枝そのものは、床柱になることも、木工細工に使われることも、何もないというのです。

あまり強度の強くない木の枝など、大工さんには何の用もなさない。

それが私達の姿でもあります。実を結ぶこと以外に、他のことには用いてもらえないからです。どんな困難な場所でも、私達はイエスにつながっていると、実を結ぶことができるのです。

 そしてここで覚えておきたいことは、成功することと実を結ぶことは違うということです。成功とは、私たちがよくやったとほめられることなのかもしれません。

しかし、実を結ぶとは、自分たちの努力に寄らず、神様のお言葉に頼り、神の恵みによって事が成り、神の栄光を現すことでしょう。

 私達は表面的なことで、うまく行った、行かない、それが実を結ぶ、神の栄光を表すと直結して考える傾向があります。しかし、実を結ぶ人は、神様が褒め称えられることに喜びを覚え、それに徹することの出来る人です。

 

3、神から任命される選び

 ヨハネのらせん状の教えは、最後に、16節「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだ。」このみ言葉にいたります。自分がつながるよりも、神様の方でつながっていてくださる。神様が、私を選んでいてくださる。

 つまり自分が一生懸命に信じて、神様にしがみついていると思っているところから逆転するのです。自分が神様を捕まえているのではなく、神様が私を選んで、私を離すことがないように、しっかりと握っていてくださる。

私がとどまる以上に、キリストがとどまっていてくださるのです。

 そしてあなたを「任命した」と書かれています。イエス様が任命しないところに行っても私たちは実を結ぶことはできません。

エス様が望まれる所で、してほしいと願うことを私達がするなら、神様は栄光をお受けになるのです。それこそが私達が実を結ぶということなのです。