2023年2月19日の説教要約 「勇気を出しなさい」

2023年2月19日の説教要約

             「勇気を出しなさい」   中道由子牧師

 

《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。》      (ヨハネによる福音書16章25~33節)

 

1、わたしの名によって求めよ

 イエス様は弟子たちと群衆に教えられる時、よくたとえで話されました。

しかし、時が来ると直接的な説明に変えられました。

弟子たちが「イエスの名によって」祈るように、新しい祈り方を教えられました。

それまで弟子たちは、イエスの御名によって父なる神に祈ったことはありませんでした。

それはイエス様が共におられたのでその必要がなかったからです。

 世の中では、社会的に身分が卑しいと思われる者が、身分の高い者の前に出る、王の前に出る、皇帝の前に出る、日本で言えば殿様の前に出る、ということがあります。

そのような場合に、あまりも身分が卑しいので、直接口を利くことができない。お取次ぎ役というのが間に入って、その身分の卑しい者の言葉を聞いて殿様の前に出て、「あの者はこう申しております」、と言う。殿が何かを言うと、その言葉を持って行って、「殿はこう仰せになっておられる」と言う。

エス様は、そういう意味での取次ぎ役はもうしない、と言われています。

なぜかというと、「あなたがたはわたしの名によって願うことができるようになっているからだ。」「主イエスの名によって」父なる神に直接願いなさい、と。

ただイエスの十字架と復活によって、イエス・キリストは父なる神と私たちの間の懸け橋となってくださった。それゆえに、イエスの名によって、祈りは聞かれるのです。

こうしてイエス様はご自分の名によって祈ることを弟子たちに教えられました。

ある人は熱心な祈りをささげます。ある人は美しい表現力で祈ります。

しかし、祈りは、私たちの熱心や巧みな表現力とは全く関係ありません。

素手で、委ねる心を持って神の前に出ればよい、それだけです。どんな付属のものも必要ありません。祈りは私たちに与えられた賜物ギフトであり、特権であります。

エスを愛して信頼する人は誰でも、父なる神と直接関係を築く特権を味わうのです。

今ある私たちの信仰、あり様、そのままで主の御名によって求めればよいのです。

力強い祈りをささげたから、主はお聞きくださったというのではない。

エスの御名に力があるから、私たちの祈りの声がたとえ弱く小さくあっても、主は聞いてくださいます。

 

2、世では苦難がある

 「苦難」という言葉は、元々の意味は「圧迫」、という言葉でした。

今は何でもつらいことがあると、ストレスがあるから、と言います。

私たちがこの世で生きている限りストレスがなくなることはないでしょう。

クリスチャンであってもなくても生きている限り必ず、みなストレスを感じるし、苦難があります。

しかし、私たちの前には苦難もありますが、チャンスの門もあります。

もしジョージ・ミューラーが説教だけして孤児の世話をしなかったなら、あれほど切実に祈っただろうか?と言われます。彼は毎日祈りの応えをいただくことなしに、多くの孤児たちを世話することはできなかった。苦難は私たちを神に近づかせます。

そして、神様は御業を見せてくださいます。

ですからある意味において祈らないと損です。

祈りの課題があると言うことは、それだけ主のみ業を見せていただけるのです。

苦難によって私たちは神の前にヘリ下ることを学びます。

神様はへりくだって祈るものが大好きで、受け入れてくださいます。

 

3、すでに世に勝っている

 私たちは世の中に生きながら、ただ世の中にいるだけではない。イエスの中にある。

キリストの中にある。具体的には、教会の中に生きています。

エスの名によって、イエスの中にあって、イエスに取り囲まれて、この世に生きています。

主イエスに従うゆえに生まれて来る苦難があるかもしれません、

しかし、多くは自分の健康の悩みであるとか、自分の個人的な問題だと思います。

主はそのような悩みを深い同情をもって受け止めてくださいます。

そして、イエスの名によって、父なる神に祈る時、イエスがこの世に対して勝利を取っておられる、この勝利を私たちにもくださるのです。

 礼拝後、病や悩みがある人たちが祈ってくださいと、待っている時があります。

主はその人たちのために、イエスの御名による祈りに答えてくださいます。

祈祷会ではそのような方々のために祈りがささげられます。

先生たちだけで祈ってくださいと言われるときもありますが、皆で祈る祈祷会での祈りを主は多くお聞きくださいます。

エス様が私たちのために、私たちが自分でどうすることもできない罪に対して勝利を既に取ってくださった。私たちをおとしめようとする悪魔に対して勝利を取ってくださった。その勝利を私たちにくださっているのです。

私たちがどんなに落ち込んでも終わりではない。そこから必ず一歩進み、二歩進み、前進できます。そういう意味で、クリスチャンは心の深い所では、いつも楽天的に生きることができる者と言えます。

「イエスは勝利を取られた。」「既に私の悩みに勝利を取ってくださっている。」

私たちは倒されることがあっても、何度でも立ち直ることができるのです。