2023年5月14日の説教要約 「母マリアのまなざし」

2023年5月14日の説教要約

      母の日礼拝 「母マリアのまなざし」    中道善次牧師

 

 ルカ 2章41~52節

ユダヤでは、昔も今も13歳が、大人になる年齢であります。

今日は、聖書の中からイエスの誕生、成長、成人を取り上げ、それらを心にとめてきた母マリアについて学びます。それを「母の日」のメッセージとしたいと思います。

 

 

1、イエスの成長を心にとめたマリア

福音書の中で、イエスの誕生を詳しく書いているのはルカです。受胎告知、誕生、羊飼いの礼拝です。さらにルカは、イエスの割礼、神殿での祝福、そして12歳の出来事を記しております。

それらは全てマリアの記憶によるものです。

それらを示す言葉が3つあります。。

ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ

ルカ 2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた

ルカ 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた

1:29は、「考え込んだ」。これは、いつでも取り出せるように心のノートにつけておいた。

2:19の思い巡らしは、あれとこれとを比較して、深く考えるという意味であります。

2章19節と51節の「心に納め」ですが、集中した、注意して見守った、そしてしっかり記憶していた。子どもの成長記録にとどめておく母親の大切な姿でした。

そのような言葉から、学者が推察するのは、ルカは福音書を書くにあたり、マリアに直接会ってインタビューしたのではと言われております。

ルカ福音書が書かれた年代を紀元60年代とするなら、その可能性はあります。その場合、マリアの年齢は75歳後半ぐらいと想像されます。

マリアの証言を元にして、ルカ福音書1章と2章が書かれたのであります。

その中で母マリアが深く記憶にとどめていたことは、受胎告知であり、出産であり、羊飼いの礼拝であり、神殿でのシメオンとアンナとの出会いであり、イエス12歳のことであります。

確かにそれらは、イエス様が神の子であることを覚えさせる大切な出来事でありました。

しかし逆の角度から言いますと、イエス様が30歳になられるまでに、この子はやっぱり神の子であるということを覚えた出来事は、マリアの記憶の中でも、受胎告知から12歳の神殿での出来事の5つだけでありました。

ルカ2章40節の言葉は、イエス様が12歳になるまでの成長過程を記しています。

ルカ 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

52節は、12歳以降の成長過程を記している言葉です。

ルカ 2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

背丈が伸びたという肉体的な成長が記されています。体が大きくなることは大切であります。

「知恵が増し」と「知恵に満ち」とあります。これらは単なる学校で学ぶ知識ではなく、精神的な成長を指す言葉で、英語で言えばマチュアー、精神的にも成長していったという事であります。

ルカ 2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。イエスが両親にお仕えになった。これは子どもが親の手伝いをしたというのではなく、子どもが精神的に成長したという証しなのです。

そしてルカ 2:52で、イエスは、神と人とに愛された。

52節の「人から愛された」。人に愛される、年長の人とも話が出来る人、対人関係がうまく作れる人になり、社会的成長を遂げたイエスさまの姿を見る事が出来る。

ここからわかることは、イエスは、私達と同じ人間となられた。だから私たちを助けることができる。

ヘブ 2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点において兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

ヘブ 2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 

2、イエスの成人式

次にイエスの12歳の時の出来事です。

エスの家族は、年に一度過ぎ越しの祭りに行っておられました。

ルカ 2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。

ここからイエス様12歳の時のエピソードがあります。

ある解説によりますと、12歳を過ぎた男性は、年に一度はエルサレムの祭りに行かなければならないという規定があり、12歳になったイエスはそれに従ったのだとあります。

しかし、ここにはそれ以上の意味がありました。イスラエル公認ガイドの河谷龍彦さんの書かれた「聖書の土地と人びと」という本によると、イエスのバル・ミツバ(成人式)の出来ことだというのです。

バル・ミツバ、ユダヤの成人式は、昔も今も、13歳で行います。イエス様は、12歳で神殿へ出かけられました。1年早いように感じますが、バル・ミツバは13歳の誕生日の周辺にやればよかったので、多少のずれはかまわなかったようです。

バル・ミツバでは、旧約聖書の巻物を広げて読んで、親、兄弟、親戚が全部集まって、ラビ(律法の教師)の立ち会いの下に簡単な問答があります。これが終わるとユダヤ教の正式な一員として認められるのです。

この理解を裏付ける言葉が、ルカ2章46節であります。

ルカ 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

「学者たちの真ん中に座って」とあります。「座る」というのは、おきてを学ぶ者の正しい姿勢であります。神殿でのイエス様は、律法を教えてもらっていたのです。

エスが子ども時代に受けてきた祝福、それは御言葉を、会堂で、そしてまた、両親から教えられてきた事です。最初にユダヤの子どもが覚えさせられるのが、申命記6章4~5節です。

申 6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

申 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

エスは、そのように聖書を学んで成長してこられたのです。

また律法学者が質問をして、それにイエスが答えていたことが47節に記されています。

ルカ 2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。

エス様の答えに人々が驚いたとありますが、今でも利発な子どもは、聖書の専門家が驚くような答えをするそうです。

これを私達に当てはめたいのです。私達は信仰者として成人式を迎えたでしょうか。信仰者の大人のしるし、成人となったイエスと同じように自ら進んで聖書を学ぶ姿ではないでしょうか。

ヘブライ書5:12~14には、信仰者の成人は義の言葉を味わうことが出来るとあります。

ヘブ 5:12 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、堅い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。

ヘブ 5:13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。

ヘブ 5:14 固い食物は、善悪を見わける感覚を敬虔によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

 

 

3、大人の自覚を持たれたイエス

第三のこととして、イエスが迷子になられた事を見てまいりたいと思います。

44節に「道連れの中にイエスがいる」という言葉があります。

巡礼はナザレ村の親戚や近所の者たちと一緒になされました。それは賑やかな旅でありました。当時の習慣で、足が遅いからということもあり、女性たちが早めに出発したようです。一日の旅が終わり、最初の宿泊場所で家族が落ち合います。マリアとヨセフは、お互いに相手の方にイエス様がいると思っていたのです。また親しいナザレの仲間と一緒の旅なので、ヨセフとマリアは、側にイエス様がいなくても心配しなかったようです。きっと友達と一緒に旅をしているのだろう。

ところが夕暮れになり、家族が一緒になる時に、イエスがいないことに気づいたのです。

46節によると、探し当てるまで、三日かかったとあります。両親の不安はどれほど大きかったことでしょうか。

そして心配して、両親がイエス様を見つけたとき、イエスが答えられたのです。ルカ2:48~49

ルカ 2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

48節で、お母さんのマリアさんが、ちょっととがめるように、どんなに心配したことかと言うのです。私はここでも、どこの家であるのと同じように、イエス様も親からがみがみ言われたのだ、という程度にしか読んでおりませんでした。

49節の言葉の中に、イエス様が大人になって行った姿と、そして52節には大人としてイエス様を受け止めた母マリアの姿が描かれております。

49節の言葉は、思春期の少年が親に向かって口答えをする生意気な応答ではありません。大人としてのイエス様の自覚、もっと言うなら神の子としての自覚の芽生えの言葉であります。

ギリシャ原文を見ますと、父の家というところは、「家」という言葉がありません。ここは、「私は、天のお父様の事柄に携わっている」と訳す方が良い表現であります。つまり一人の大人として、神様から、天のお父様から与えられた使命を自覚して生きている。その言葉の表れなのです。

50節で、両親はすぐにこのイエス様の言葉の意味を理解出来ませんでしたが、マリアの偉いところは、「何を生意気な事を言っているの」とイエスを叱らずに、51節にあるように、「これらの事を心に納めた」のです。先ほどの説明に加えますと、「心に納める」とは、心の中に宝物を積むという意味であります。しっかりと記憶して、時々宝物を宝箱から出すようにしていたのです。

マリアは、この出来事を通して、イエス様を大人として、神の子として扱い、受け止めたのです。

子どもが成長して大人になってゆくためには、子どもの側の自覚と共に、それを受け止める親の側の自覚と姿勢もまた問われるのであります。