2023年10月15日の説教要約 「天のふるさと」

2023年10月15日の説教要約

                        「天のふるさと」    中道由子牧師

 

《ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望したいたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。》(へブル人への手紙11章13節~16節)

 

1、信仰によって

この手紙全体で「信仰」と言う語は32回使われていますが、11章だけで24回、そして「信仰によって」という言葉が18回記されているのです。

 肉眼は目に見えるものだけを確信させますが、信仰は肉眼で見えない神の本質を確信するわけです。

目に見えないものをどうして確信できるのか、と言う人がいますが、私たちが持っている希望も愛も目に見えないけれど実在します。信仰も同じです。

天の希望は、信仰があってのみ、生きて働くものです。

ここには、目に見えないものを確信させるものです、とありますが、それは「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳している聖書があります。

私たちが希望として持っているものは、みな目に見えないものです。

神、イエス・キリスト聖霊、天にあるものはみな、物理的に見ることはできません。

それらは科学的に検証することもできません。

しかし、私たちはやがてこの地上での生活を終えた後、天国へ行くことができると確信しています。それはどのようにしてかというと、信仰によってです。

それをしっかりとつかむことができる手は信仰にほかなりません。

なぜそのように確信することができるのかというと、それは、私たち信じる側に何らかの根拠があるからではなく、信じている対象である神が確かなお方であられるからです。

科学的に物事を認識しようとする人は、目で見て、耳で聞いて、手で触れて確かめますが、信仰という目で見る人は、肉眼で見ることができないものでも、そこに確かな証拠を見ることができるのです。

私たちが信仰で見る確かな証拠、それは、神が私たちを救ってくださったという事実です。神はそのためにひとり子さえも犠牲にして、私たちが受けなければならない罪の身代わりとして十字架で死んでくださったほどに私たちを愛してくださった方だからです。

その方が私たちのために聖書を通して約束してくださっている、そこに確かな証拠があるのです。将来起こることは目で見ることはできませんが、神が約束してくださったこの聖書によって確かなものとしてつかむことができるのです。

「信仰」とは、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑いもせず、そのとおりになると確信することではないでしょうか。

将来何が起こるか、私たちには何もわからないのですから、思わぬことが起こると私たちはどうしていいかわからなくなってしまいます。

信仰によって私たちは、自分で頑張って自分の人生を何とかするというところから、神に自分の人生を委ねる人生に導かれていくのです。

 

2、更にまさる故郷

 2節に「昔の人々はその信仰によって称賛されました。」とあります。

神を信じて生きた昔の人々、つまり、旧約聖書の中で信仰に生きた人たちのことです。

アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブモーセヨシュア、ラハブ、

そして32節には、「これ以上、何を言いましょうか。」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続きます。

 信仰によって勝利を経験することもありますが、苦難や栄光の死に至ることもあります。この世で嘲られ、鞭で打たれ、鎖につながれ、牢に入れられたエレミヤやアハブ王時代のミカヤ。石で打たれて死んだゼカリヤ、伝承によればイザヤはのこぎりで引かれたそうです。動物の皮を着て歩き、圧迫を受けていたエリヤなど。

みな信仰の人と認められていましたが、新しい契約の成就、イエス・キリストの降臨を知らないで、しかし救い主を望み見て天の故郷に帰って行ったのです。

私たちは今、イエス・キリストによって新しい契約の成就を味わっています。

イエス・キリストによって罪赦され、永遠に生きる者とされるのであります。

11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたがはるかにそれを見て喜びの声をあげ」た、とあります。

 旧約時代の聖徒たちは皆、真実な神の約束を確信して生き続けたのです。

そして、死に際しても、死は生涯を共に歩んだ神のみ前に、より近くいることと受け止めていました。

 また、彼らは、地上では寄留者であり、旅人であると告白していました。

14節「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」

旧約の父祖たちは皆、この地上の生活は永遠に向かう巡礼の旅のようで、自分たちの国籍と地位は天にあることを知っていました。

旅人は当時、異邦人とか外国人を意味する言葉で、彼らは苦しい立場に置かれていました。「寄留者」は、永住する土地を持ちながら、今いる土地には自分の家や財産を持たない人たちのことです。

天の御国を目指して旅するクリスチャンは、この世において不自由やある時は屈辱を味わうこともあるかもしれませんが、この世の名誉や財産には執着しない者であるということです。

クリスチャンは、地上に生きている時も天にあるものを望んで天を仰いで生きている人たちでしょう。

神様はその人たちに、16節の「更にすぐれた故郷」を約束しておられるのです。